「印鑑と電卓」(裏購買部シリーズ)

※こちらはEエブリスタで連載されている「裏購買部」の追加エピソードです。
 

 
都内にある共学の都立高校。

無数に並べられた教室の一つを、まるで血に染まったような赤い夕日が、窓から照らす。

ここは裏購買部。生徒たちの欲望を叶え、生徒たちの願いを聞き入れる奇妙で奇怪な場所。
オレンジ色の光に包み込まれたこの部屋は、廊下とこの部室を隔てる壁のすぐそばに、学校机が向き合うようにして三組。合計六個置かれている。

グランドに面した窓側にあるのはガラス製の足の低い机。それをはさむように二人がけのソファが、これまた向かい合わせて設置されていた。
片方の扉付近には通常のそれよりもやや大きめのロッカー。少し離れた壁際には戸棚が置かれている。

「恭弥さん、暇です」
江上由梨(えがみゆり)は、学校机の一つに座りながら足をバタバタと動かしていた。その度に床に上履きが当たり、小刻みに軽快な音が鳴る。
茶色に染まったショートカットの髪。小動物のようなクリッとした目が特徴的であった。

「そうですか」
ソファに座っている橘恭弥(たちばなきょうや)が答えた。透き通った白い肌に鋭い目。黒い髪がその端にかかり、陶器のような静けさと繊細さを感じさせた。彼は今、テーブルに向かいノートに何かを書き込んでいる。

「何しているんですか?」
由梨は橘の後ろに立ってそれを覗き込んだ。
「新しく仕入れた商品の管理方法、それと使い心地をまとめているんです」
「へえ」
由梨はノートの文字に目を通すと、
「何語ですか、それ?」
と尋ねる。まるでマイナーな国の言語のような、見たことがない文字がそこには書かれていた。
「日本語です。速記の文字ですが」
「速記?」
「あらゆる言葉を限界まで簡略し、とにかく速く描けるように開発された文字のことです。もともとは議事録のために使われていたものですね」
「……何で今、速記しているんですか?
「由梨さんがこれを見た時になんて書いてあるか分からなかったように、秘密保持性の観点から見ても有効なのです。非常に機密性が高い情報ですから」
「なるほど。でも恭弥さん」
再び先ほどの学校机に着いた由梨はポツリとつぶやいた。
「なんでしょう」
橘が答える。
「暇です」
「でも、の意味がわかりませんが」
苦笑しながらも橘は、常日頃からそうしているように、由梨に向けてどこから仕入れてきたかも分からぬ情報を語り始めた。
「暇を解消する方法を探るのは人類に課せられた使命です。人間は、ただ生きるということであれば、それを満たすことができる社会を作り上げてしまいました。だからこそ本来の生存とは関係ないことに目を向け、一喜一憂することで死ぬまでの暇つぶしを図っているのです。つまりそれは種としての、」
「もうー!難しい話をしないでくださいよ」
由梨が口をとがらせ、批判的な目で橘を見る。
「難しくありません」
「じゃ、小難しい話をしないでくださいよ」
「小難しくもないはずですが」
橘は首を傾げ、さらに何か言葉を続けようとしたが、
「暇です暇です暇です暇ですー!」
という由梨の言葉にかき消されてしまった。

その後、先刻と同じように、やはり足をバタつかせて、さらに再び「暇です暇です暇です暇ですー!」とブツブツつぶやいた挙句、由梨は「あれ?」と天井を見上げる。
「このやりとり、前にもしませんでしたっけ?」
「このやりとりとは?」
「いや私が『暇です暇です』って言って」
「それなら毎日のように言っています。既に今日だけで5回目です」
「違います。いや違わないですけど、違うんです。だって恭弥さんが『暇を解消する方法を探るのが人生だ』とかなんとか小難しい話をするの、聞いたことがある気がするんですもん。こういうの、えっと、なんて言うんでしたっけ」
「デジャブですか?」
「あ、そうですそうです。絶対に昔聞いたことがあるんですよ。恭弥さん、私に同じ話をしたでしょ!証拠にもなく!」
「どうですかね。そんな気もしますがちょっと坂ではありませんね。それこそ難しい話でもないので格段、意識してないと言いますか」
そう話しながら、橘は口元に微笑を浮かべた。
「あ、そうやって私を馬鹿にするー!」
「馬鹿になんてしてませんよ。普通のことを言っただけです」
「嘘ですね。恭弥さんは本当にそういうところがあるんですよ」
「まるで僕のことを全て知っているような言い方ですね」
「知ってますよ。恭弥さんのことはなんでも」
「果たしてそうでしょうか?」
「果たしてそうです。任せてください。じゃ、やりましょうよ橘恭弥クイズ!行きますよ?では第1問」
「それ……僕が答えるんですか?」
その時、部室の扉が開かれる。橘はそちらに目をやった後、向かいのソファに座って今まさに出題しようとしている由梨に向けてこう告げた。
「由梨さん、客人です」


「てぃっすー!」
甲高い声を出して、一人の丸々と太った男児学生が中に入ってくる。目は卑しく垂れ下がり、グフフフと奇妙な笑い声をあげていた。
「なんだ栗栖さんじゃないですか」
さっとソファから立ち上がっていた由梨は、がっかりしたように再びソファに腰掛ける。

「なんだってなんすか、由梨さん。ちょっとちょっとー!」
大げさな動きで由梨を指差す栗栖。橘はその背後にちらっと視線をやった。
「もう一人いるみたいですよ」
「え」
由梨は橘の目線を追ってその先へと目をやる。確かにそこには小柄な男子生徒が立っていた。どうしたものかと手持ち無沙汰の様子である。
「あ、失礼しました」
由梨はそそくさと栗栖の横を通り抜け、その男子学生を見るとニッコリと笑った。
「ようこそ、裏購買部へ」

「なんか俺と扱い違うくないすか?」
「いやいや栗栖さんは裏購買部の一員じゃないですか」」
不満げな表情で文句を言う栗栖を見て、由梨は指摘する。
「まぁ、栗栖君がこの部活の一員かどうか、際どいところですか」
「え、なんですか橘さんまで。ちょっとちょっと嫌になっちゃうなー」
そんな調子で橘と由梨にツッコミを入れる栗栖はどこか嬉しそうで「ほんと勘弁してくださいよー」とやはり必要以上に大げさに体を動かして、楽しそうにニヤニヤと笑っていた。

「それで、今日はどうされました?」
橘は栗栖の大根芝居に付き合うのを早々に切り上げ、今まさにやってきた男子生徒に質問をする。
富田は生まれたばかりのヤギのように体をブルブルと震わせ、
「ぼ、僕は富田と言います。1年生です」
と直立不動で答えた。
「あ、とりあえずこちらにどうぞ」
由梨は富田を、今まさに自分が座っていたソファへと案内する。
「由梨さん、彼にお茶を」
「はーい」
由梨は慣れた様子で戸棚の前にやってくるとティーカップを取り出した。
栗栖は一番近くの学校机に腰を下ろし、さらに隣の椅子にだらしなく自分の両足を乗せると、片手を上げて由梨に声を掛ける。
「あ、由梨さん。僕にもお茶をくださいっす」
「ご自分でどうぞ」
そして即座に由梨に断られた。


「それで今日はどのようなご用件で?」
橘は先ほどまで持っていた文庫分を机の上に置き、富田に尋ねる。
「いや、えっと」
「説明しましょう」
言いづらそうにしている富田の代わりに、栗栖が話を始めた。
「俺はさっき、日課の屋上探索に行っていたんですよ」
「なんですか、日課の屋上探索って?」
富田の前にティーカップを置きながら、由梨が尋ねる。
「文字どおり、屋上を探索することです。授業が終わるといつも屋上に行くことにしているんですよ。他にも机のガサ入れ、女子のカバンチェック、部室の盗み聞き。これらは全て俺の日課すね」
「なんですかそれ!」
由梨が金切り声をあげる。
「あ、いつもやっているわけじゃないっすよ!たまにっす。気が向いたらっす」
「いやいやダメに決まっているじゃないすか。犯罪ですよ!」
「でも俺がこうやって情報をたくさん握っているのは、こういう日々の積み重ねがあってのことっすから」
「いやでもダメです!そんなの許せません!」
「待ってくださいって。批判は後で聞きます。で、とりあえずその日も俺は屋上に向かったんす。屋上っていうのは秘密が集約される場所ですからね。密会、情報交換、商品売買、イジメなどなど。事件は屋上で起きているんすよ。そもそも屋上という開放的な場所が人間の理性を」
「そこで富田君と出会ったと?」
栗栖の発言を遮り、橘が尋ねる。
「まさにそういうことっす。偶然がもたらした奇跡っすね。これだから屋上探索はやめられない。俺は遭遇してしまったわけっすよ。この富田氏の歴史的瞬間を」
「何を目撃したんですか?」
由梨の質問に、ふふふと栗栖は口の端を歪める。
「告白っすよ」
「うわ最低!」
由梨が手で口を覆い、信じられないといった目で栗栖を見る。
「人の告白を覗き見したんですか?そんなの最悪ですよ!ねえ、恭弥さん、聞きました?」
同意を求めてくる由梨とは対照的に、橘はティーカップに口をつけ何度か頷く。
「あまり良い趣味とは言えませんね。ただ栗栖君ならやりそうですが」
「確かに人間の屑である栗栖さんなら妙に納得できますけど。てか栗栖さんのやることなすこと全て非人道的ですよね。控えめに言って死んでほしいです」
「全然控えてないじゃないっすか。てか違うっすよ。誤解っすよ」
栗栖は口をせわしなく上下にパクパクと動かして泡を飛ばし、困ったような、それでいて笑いを堪えきれないような不思議な表情を作っていた。

「俺は覗き見なんかしていません。いつものように屋上に行ったら、何やら話し声が聞こえる。どうやらそれは富田君のものだった。そしてその口ぶりから察するに、愛の告白のそれに違いない。こうしちゃいられない!急いで階段を駆け昇る俺」
「やっぱり最悪じゃないですか」
「まぁ最後まで聞いてくださいって。息を切らしながら『落ち着くんだ富田君!』と扉を開くと、俺の目の前には屋上の景色が広がりました。どこまでも続く青い空、その中をゆっくりと、まるで泳ぐように流れる白い雲。吹き抜ける午後の風は穏やかで切なく、時に春の香りを運んでくる。グランドからは野球部員たちの掛け声が聞こえ、それはどこか牧歌的なリズムを奏でながら、」
「早くしてもらえますか?」
ぴしゃりと由梨が口を挟む。それに対し、栗栖は特に気分を害した様子もなく言葉を続けた。
「そんな屋上にた立った俺は、目の前にいる二人の人物が俺のことを見ていることに気づきました。俺はカリスマ性がありますからね。やはり人の目を惹きつけてしまいます」
告白の最に、空気も読まず急に現れた人間がいたら誰だったそちらに目をやってしまうだろう、と由梨は思ったのだがここでまた中断されるのも煩わしくなり、そのまま栗栖に話を続けさせる。
「俺は言いました。富田君、君は今相当ヤバイことをしている。その辺、自覚している?ヤバイよ。まじでヤバイっすよ。何がヤバイかといえば、そうっすね。難しいっすね。ただこれだけは言わせてください。ヤバイっす、と。」
なおも栗栖は話を続ける。
「俺はさらに彼に告げましあ。確かに俺もまぁ、昔はヤンチャしました。相当なもんす。でもね、そんな俺から見ても今のあんたはヤバイ。俺の話?良いじゃないすか俺のことは。俺のことよりもあんたのことっす。本当にヤバイっす。ヤバイって言葉じゃこれはもう足りないっすね。ん〜ヤバイっ!これくらい言い切るくらいのヤバさが今の富田君にはあるんす。そもそもヤバイってのは、」
「だから何がヤバイんですか?」
ついに我慢できなかった由梨が、トゲのある言葉を栗栖に投げかける。栗栖はイライラしている由梨の反応を見て愉快とばかりに笑っていた。栗栖の代わりに答えたのは富田である。
「僕が告白した相手のことみたいです。二年生の小川瀬奈さん、という方なのですが」
「あぁ」
由梨と橘は納得したように頷き、そして栗栖は「ね?」と眉を吊り上げた。
「ほら、ヤバイっすよね?」

小川瀬奈とはこの学園の中で一二にを争う人気女子であった。しかし今の所、明確な彼氏はいない。その理由は、栗栖が彼女に付けた二つ名「籠の中の天使」から分かるように、彼女を有象無象の男たちから守っている一人の男の存在が大きかった。
安藤という大柄で目つきが鋭く、やはりこの学校で最も強いと噂されている男である。彼によって瀬奈に近づくどこの馬とも知れぬ男は全て薙ぎ払われ、場合によっては暴力的に懲らしめられていたのだった。

「よりによって瀬奈さんか。確かになかなか手強そう」
「でしょ?しかも俺がその状況を見かけた時にはすでに時遅し。富田くんは木っ端微塵にフラれた後だったんすよ」
「それはお気の毒でしたね。それで、今日はうちにどんなご用で?」
「それなんすよ。ね?ね?富田君。ちょっと相談してやってくださいっす」
「あの、えっと。できればなんですけど、僕が告白した事実をなかったことにできるような道具をお借りできればと」
「ほう」
橘がそこで興味深く声をあげる。
「虫の良い話だとは思っているのですが」
「私は別に、わざわざなかったことにしなくても良いと思いますけど」
「出たっすよ、由梨さんの調子こいた発言!出たよ出た出た。これだけら嫌っすよね。ちょっと自分がモテるからって調子に乗って」
「は?調子になんか乗っていないですよ!」
由梨が立ち上がり、顔を真っ赤にして否定する。そしてチラチラと橘を見ながら言い訳をするように呟く。
「べ、別にモテてなんかないですし」
「はいはいはい。その発言がもう浅はかなんすよ。心の底では見下しているんす。富田君のことを」
「確かに栗栖さんのことは見下していますけど、今日会ったばかりの富田さんをそういう目で見るなんてありえないですよ」
そこで橘が口を挟む。
「由梨さんの言うことも一理あります。これから先の人生、失恋する度にその事実をなかったことにしたいと考えていてもあまり根本的な解決にはならないかと」
「はい、もちろんです」
何度も何度も深くうなずきながら、富田は答える。
「でも瀬奈さんとは同じ部活でして、僕と瀬奈さんは次の夏合宿を一緒に担当することになっていたんです。つまり、これから定期的に連絡を取らないといけなくて」
「なんでそんな時期に告白なんかしたんですか」
由梨が不思議そうに富田に尋ねる。「確かに」と橘も頷いた。
「いや、それはえっと」
言いよどむ富田の代わりに、栗栖が口を開く。
「そんなこと関係ないじゃないっすか!愛なんて衝動的なものっすよ!いちいち理詰めで考えていたら一生、告白できないっすよ!それこそ由梨さんみたいに」
「ちょ、ちょっとどういう意味ですか!変なこと言わないでください!」
「でも一般論としてはそうっすよね?由梨さん?」
勝ち誇ったように尋ねる栗栖に、
「まぁ、はい。確かにそうですけど」
由梨は肩をすぼめて答えた。
「良いでしょう。そもそも僕たち裏購買部は望んだ方に望んだ商品を提供する場所。本当に富田君がその道具にふさわしいか否かは、商品が決めることです」
「そういうことっす!分かりましたか?由梨さん?」
鬼の首を取ったようにヒヒヒと笑う栗栖を見て、由梨はムッと頬を膨らませる。
「まぁでも確かにそうかもしれないですね」
諦めたように由梨は口を開く。
「栗栖さんに知られたっていう状況は、富田さんにとって危険ですよね。歩くスピーカーですし。なかったことにしたほうが良いかも」
「おお、分かってますね由梨さん。そうっすよ。俺なんかこの情報をどうやったら面白く料理できるかしか考えていないですからね」
「え、そうなの?」
富田が驚いたように栗栖を見る。
「もちろん冗談っす。でもかなりの確率で本気っす」
そんなやり取りをしている最中、橘は立ち上がる。そして今まで自分が背にしていた部室の壁に沿うように置かれている戸棚の前に立った。
「あれっすよ、あそこから商品が出てくるんす」
栗栖は囁きながら富田に説明する。
「うん」
ごくりと富田は生唾を飲み込んだ。橘は上から二段目の、縦に厚みのある引き出しを開く。そして、その中から巨大なアタッシュケースを取り出した。

橘はそれをガラステーブルの上に置くと蓋を開いた。中には多種多様な商品がぎっりちと収まっており、橘はその中から、木製で出来た直方体の箱を一つ取り出した。両手で抱えられるサイズで、側面には「た行」と描かれている。

その箱の中はさらにまた細かく区分されていて、布製の小袋がいくつも入っていた。その一つを橘は手に取る。袋には「富田」と印刷されたテープが貼ってあった。
「これは『後悔の印鑑』です」
橘はその袋の中身を机の上に開ける。細長い小指サイズの木の丸棒がいくつも出てきた。確かにそれは印鑑である。

「後悔の印鑑……」
富田は橘の言葉を繰り返す。

「印鑑は、たとえ同じ名前が彫られていても一つ一つが違います。さながら人工的な指紋のようなものだと言っても良い。新しい印鑑を使うということは、新しい自分になるということです。そしてこの道具は、自分がしでかした後悔を消し、新しい未来を切り開くための道具」
並べられた印鑑には全て「富田」という文字が彫られている。橘は自らの手のひらにそれを載せ、一つ一つを改めて確認した。ジッとそれを見つめ、時折首をひねるものの、すぐに富田への説明を続ける。由梨もまた橘の話に聞き入っているが、栗栖はアタッシュケースの中をジロジロと覗いていた。

「端的に言えば、この印鑑を使用することで、24時間前の世界に戻ることができます。タイプスリップとはまた違い。ただ単に全ての時間だけが巻き戻るのです。その世界で小川瀬奈さんに告白をしなければ、あなたは望んだ世界を手に入れることができる。
「恭弥さん、でもそれって」
由梨が手を上げて橘に質問をする。その向かいのソファでは、アタッシュケースから取り出した電卓を興味深そうにいじっている栗栖がいる。
「仮に24時間前に戻っても、全てが巻き戻るなら記憶も同じですよね。ってことは瀬奈さんに告白してしまうんじゃないですか?」
「そうですね」
「あ、それは、困ります」
富田が眉を下げる。
「だから通常は、24時間前の自分にメッセージを送ります。紙に書いて、これから起きることを予言しておく。そして絶対にこれだけはしないようにと過去の自分に告げるのです」
橘はアタッシュケースの中に入っている付箋を一枚手に取り、富田の前に置く。
「ここに過去の自分へのメッセージを書き、最後にこの印鑑を押します。それを合図に富田くんは24時間前に戻りますが、この付箋は残ったままです。」
「なるほど」
富田は早速自分のカバンの中からペンを取り出し、過去の自分への警告文を書き始めた。由梨はその様子を見ているのも悪い気がして、栗栖がいじっている電卓へと焦点を移してみる。

「その電卓はなんなんですか?」
栗栖も訝しげに触っているところを見ると、彼もまたこの商品の使い方をわかっていないらしい。
「電卓ではなく、電悼(でんとう)です。電卓の電に、哀悼の悼です」
橘は宙に漢字を書いて説明した。
「なんすかこれ?さっきから同じ数字しかでないんすけど」
栗栖はあちこちのボタンを押しながら不満そうに口を尖らせる。
「そうですね」
そこに表示された画面を見ながら、橘が何かを言おうとしたその時、
「できました」
富田が声を上げた。

「それはまたいずれ話しましょう」

橘は電悼の話を切り上げると、再度富田に向かって「後悔の印鑑」の説明を繰り返す。

その様子を見ながら由梨はあれと首を傾げた。富田がこの商品を使った場合、時間は24時間前に戻る。
そしてその世界では小川瀬奈に告白することはないため、彼がこの裏購買部を訪れることはない。となるとアタッシュケースを橘が取り出すこともなく、栗栖も由梨もこの電悼を見ることはないわけである。
つまり橘の言う「あとで」というのは訪れないということになる。自分よりも商品に精通している橘がそのことを気づかないわけがないはず。だとしたら、「あとで」とはその場しのぎの方便だったのだろうか?もしかしたら、栗栖に説明したくない何かがあるのかもしれない。そんな推測を由梨はしてみる。

「この印鑑を押した1分後に時間の逆流が始まります。この付箋以外の全てのものは24時間前に逆戻りです。この付箋は、24時間前の富田くんが告白する前に見るような場所に保管しておいてください」
「自分の机の中が良いんじゃないっすか」
栗栖が提案する。彼は今もなお電悼を、どこか押すことで新しい何かが表示されるんじゃないかと期待しているように触っていた。
「あ、そうだね」
富田もまた納得した。
「では最後の印鑑は自分の机の上で押したほうが良いでしょう。そしてすぐ机の中に付箋をしまってください」
「よっし!じゃ行くっすよ!富田くん。さっさと立つ!ほらほらほら!」
栗栖は立ち上がると、電悼をその場に起き、富田の手を引っ張るようにして教室から出て行った。その背中を見送りながら、由梨は橘に話しかける。

「恭弥さん」
「なんでしょう、由梨さん」
「なんか怪しくないですか、栗栖さん。あんなに他人のために動くい人でしたっけ?」
「そうですね。彼が富田くんにしている行動は、我々の栗栖くんのイメージとは真逆のものです」
橘は立ち上がると、電悼や富田に渡したもの以外の「富田」と書かれた印鑑をアタッシュケースの中にしまいだす。
途端、橘の手の動きが止まった。印鑑の一つを彼はじっと見つめている。

「どうしました?」
「何か引っかかります」
その時、地面がぐらっと揺れる。
一つの印鑑が橘の手からこぼれ落ち、ソファに座っていた由梨のスカートの上に転がった。
「わ!」
由梨は思わず横にいる橘の足をぎゅっとつかむ。

「じ、地震?」
「いえ、時間の巻き戻しが起きているのです。どうやら富田くんが印鑑を押したようですね」
橘は落ち着いた様子である。

「なるほど、これが」
由梨は膝上に落ちてきた印鑑を拾って、橘の手に戻した。徐々にその振動は大きくなり。上下左右に床が暴れ出した。しかし、天井の蛍光灯や戸棚が揺ている様子はない。
人間だけがその揺れを感知しているのである。その振れ幅は由梨の恐怖を煽るには十分すぎるほどで、相変わらず橘の足を掴んだままである。

「大丈夫ですよ、由梨さん」
橘はソファに座り、由梨の手を握り取る。途端、由梨の心拍数が急上昇した。
「え?え、あの」
目をパチクリさせ、挙動不審になっている由梨をよそに、橘はその手をじっと見つめている。今しがた由梨が印鑑を拾った時、朱印が手に付着していた。

「もしかして」
橘は咄嗟に胸ポケットからペンを取り出すと、富田に渡したものと同じ付箋に、凄まじい勢いで文字を書き始める。地面が今までよりさらに大きく動き出し、天と地が逆さになるような感覚が由梨を襲う。しかし橘はなおもペンを走らせていた。
何が起きているかわからない由梨は、橘に身を寄せながらその様子を見つめている。
徐々に、由梨たちを真っ白な光に包み込みはじめる。付箋に文字を書き終えた橘はアタッシュケースの中から全く別の、「橘」と書かれた印鑑を取り出すとそれを付箋に押した。ちょうどそのタイミングで、周囲は真っ白の光で満ち溢れ、二人の意識は途絶えてしまった。





24時間前。

放課後の教室。富田が自分の机の中に付箋をしまったこの部屋には、栗栖しかいない。
今の栗栖には、もちろん24時間前に戻ったという感覚はないし、富田の告白を見たという記憶も無くなっている。彼がここにこうして立っているのは、日課としているクラスメイトたちの机の中漁りをするためだ。

「よしよし、誰もいないっすね」
教室と周囲の廊下を再三確認した栗栖は、あちこちの机の中を覗いては適当に他人のノートを引っ張りだし、どこかに面白い情報はないかと確認する。

やがて栗栖は富田の席の前に立った。無遠慮に机の中に手を入れると、一枚の付箋が彼の指に触れた。そこに書かれていた文章を栗栖はしばらく見ている。一体どういうことなのか?このクラスメイトが一体どんな状況に置かれているのかをじっくりと考える。

「これは、面白いことが起きているかもしれないっすね」
そう呟いた栗栖はその付箋を机ではなく、自らのブレザーのポケットの中へとしまった。

「栗栖くん、何をしているんですか?」
突如、教室の扉が開く。そこには橘と由梨が立っていた。
「これはお二人さん。相変わらず仲良いっすね」
栗栖はニヤニヤと笑っている。
「恭弥さん、どういうことですか?急に走り出して」
はぁはぁと息を整えながら、由梨が橘に尋ねる。
「栗栖くん、あなたが今ポケットの仲に入れたものを出してください」
「え、何がっすか?俺は何もしまっていないっすよ」
「惚けても無駄です。あなたは未来の富田くんから送られてきたメッセージを破棄し、明日、彼をけしかけて小川瀬奈さんに告白させるつもりでしょう」
「え?何が起きているんですか?てか、富田くんって誰ですか?」
由梨は目をパチクリさせていた。

「話せば長くなるのですが、」
橘はどう説明したものかと顎に手を乗せる。

「うちの商品の中に『後悔の印鑑』という道具があります。それを使うことで24時間前に時間が戻るという代物です」
「それは部室にある『律儀なロッカー』みたいな?」
「あれはタイムスリップの道具ですが、これは単純に時間を巻き戻すだけという効果があります。そして明日の夕方、小川さんに告白をしフラれた富田くんという男子生徒がうちの部室を訪れます。その事実をなかったことにして欲しいと。そこで僕はこの印鑑を利用し、彼を24時間前に戻してあげたのです」
「それが今の私たちってことですか。あれ?でもそうなると、えっと」
「由梨さんが思った通り、それでは富田くんがまた同じように小川さんに告白をしてしまう。しかし、この印鑑を押された紙だけは24時間の時間を遡っても消えることなく存在します。未来の僕たちは富田くんに向け、『決して告白しないように』という旨のメッセージを付箋に書くよう助言しているはずです」
「えっと、はい。なんとなく分かりました。なら問題ないですよね。富田くんという人は告白しないで済む」
「しかしそのメッセージをいち早く見つけ、24時間前の富田くんがそれを見つける前に処分した男がいたらどうでしょう?」
「……それがもしかして」
由梨はゆっくりと栗栖を見る。
「待ってくださいよ、橘さん。もし仮にその印鑑が使われたとして、俺だってあなたたちと一緒に記憶をなくして24時間前に戻っているはずっすよね?富田くんが残したメッセージなんか知るはずもない」
「ええ。だから栗栖くんは富田くんのメッセージを処分しようとして机の中を覗いたのではありません。むしろ逆ですよね」
「逆、ですか?恭弥さん、私には何が何だか」
今にも頭から煙を吐き出しそうな由梨を見て、橘はにっこりと笑う。
「栗栖くんは、日頃から他の生徒の机の中をのぞき見しています」
「うわ最低!」
「あれ、どこかで同じことを言われたような気がするっすね」
栗栖は頭をひねる。
「そして彼は今、友人の富田くんの机の中を漁っていた。すると未来の富田くんが24時間前の自分に送ったメッセージを見つけた。そこで栗栖くんは気付いたのです。今この世界が戻された世界なのだと」
「はあ……」
「同時に富田くんが小川さんを好きという情報を手に入れた栗栖くんは、富田くんをけしかけて小川さんに告白をさせる。するとどうなるでしょう?」
「えっと、富田くんはうちの部活を訪れて、その印鑑の効果で過去の自分のメッセージを残しながら24時間前の世界に戻るんですよね。そして巻き戻った世界では何気なく机を漁っていた栗栖さんがいて、そのメッセージを見つけてしまう。あ、恭弥さん!」
由梨が目を丸くして橘を見た。
「そうです。僕らはこのループの中に閉じ込められてしまっている」

「ヒヒヒ、ヒヒヒッ」
意地汚く、下品な声が教室に響いた。

外から入ってくる夕日を受け、栗栖の顔は、泣いているようなそれでいて笑っているかのような、まるでピエロのような表情になる。

「どうっすか?面白いでしょ?俺たちは一体この世界を何回やっているんすかね?そう考えると愉快っすよ。もしかしたら一生このまま、抜け出せない。そう考えると楽しくてしょうがない」
「ちょっと栗栖さん。本格的に冗談にならないですよそれ。ていうか、人の机の中を覗き見するのも十分、冗談じゃ済まないですって!」
「うるっさいすね!由梨さんは本当に。親戚のおばさんみたいっすね。絶対に恋人にしたくないっす。絶対あんたを選びません!」
「なんで勝手に選ぶ側になっているんですか!」
そんな由梨を無視し、栗栖は橘に向き直った。
「橘さん、ひとつ疑問があるんすけど
栗栖はポケットから一枚の付箋を取り出し、それを親指と人差し指で掴んでゆらゆらと揺らせて見せた。
「なんで橘さんはこれから起きる未来のことを知っているんすか?俺はこの、富田くんのメッセージを見てあらかたのことを予想したんですけど、あなただって、24時間前に戻っているんすから、富田くんの存在すら知らないはずっすよね」
「ええ」
橘は頷くと、彼もまた自らのポケットから一枚の付箋を取り出した。
「僕のポケットにはこれが入っていました。これは、未来の僕が送ってくれたメッセージです」

「かなり急いでいたようなので乱雑な文字ですが、こう書いてあります。24時間後の僕は、富田くんに例の印鑑を渡した後、他の『富田』と書かれた印鑑に朱印の跡があったことに気づいたようです。つまり直近で富田という人間に他の印鑑を渡している。しかし僕にはその記憶がない。となるとなんらかの理由によってループが生まれてしまっているのだと。そしてその原因を作り出しているのはきっと富田くんにやたら協力的だった栗栖くんの可能性が高いと」

「はぁ、やりますね」
栗栖は富田の机の上に腰掛けると、両手を広げた。
「さすがっすその通りっす」
「その付箋を元どおり、富田くんの席の中にしまってもらえますか?」
橘の提案に栗栖は肩をすくめた。
「でもそれは関係ないじゃないっすか。俺が見つけたものは俺のものっすから」
「いやそれは元々富田くんのものじゃないですか」
「でも彼に購買部を紹介したのは俺っすからね。それに彼は告白の仕方によっては富田くんは成功するかもしれない」
「そんなわけないでしょ!」
「あれ、なんで由梨さんはそれを否定するんですか。富田くんじゃどう足掻いたってフラられるって言いたいんすか?それは酷い。これだからモテるやつはダメなんですよ」
何か言い返そうとした由梨を、橘が止める。
「栗栖くん」
そして橘はポケットから一台の正方形で薄型の機械を取り出した。
「なんすか、その電卓」
栗栖は片眉を釣り上げる。
「電卓ではありません。電悼と呼ばれる商品です。実は僕に送られてきた文章にはまだ続きがありまして、もし栗栖くんが説得に応じないようであればこの道具の秘密を交換条件にしてみろ、と書かれていました」
そして橘は電悼を栗栖の前に置く。栗栖はそれを胡散臭そうに触りだすが、しばらくして口を尖らせた。
「なんすかこれ、同じ数字しか出てこないっすよ」
「電悼という名の通り、それは『自分を哀悼(あいとう)してくれる人間の数を計算する機械』です。哀悼とはすなわち、死んだ人間を慈しむこと。つまり、あなたが今死んだとしてどれだけの人間が悲しんでくれるかが表示されています」
栗栖はそれを聞きながら、呆然と電卓の数字を見つめている。慌ててあちこちのボタンを押してみるがやはりその数字は変わらない。
「どんな数が出ていないんですか?」
由梨が近づいてみると、栗栖は慌ててそれを背中に回し、今まで由梨が見たことがないような大声で喚き散らかした。
「来るんじゃねえっす!
そしてまた電卓の画面を見つめる。

「いや全然気にしていないっすよ。は?なんすか?なんすか?俺がこういうの気にするタイプだと思っているですか?これで動揺するとでも?馬鹿言っちゃいけないっすよ俺は生粋の嫌われ者、ジョーカー野郎っすかね。むしろ当然、むしろ必然。狙ってやったとしても過言じゃいすから。は?泣いてないっすよまじで」
栗栖は一人、ぶつぶつとつぶやいている。
「彼、どうしたんですか?」
由梨は小さな声で橘に尋ねる。
「きっと数字がマイナスだったんでしょう」
「マイナス……っていうことは?」
「今彼が死んだら喜ぶ人の方が多いということです」
「うわ……キツっ」
絶句する由梨をよそに、橘は栗栖へと近づいていく。
「栗栖くん。今の僕たちにはあなたを強制する術を持ちません。だからこう提案するしかない。その数字を少しでも、プラスに近づけてみませんか?」
栗栖はしばらく黙っていたものの、やがて右手に握りしめていた富田の付箋を、ゆっくりと机の中へ収めたのだった。




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